マクヴィティとジャファケーキの歴史(2)「ジャファケーキ生誕」篇

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ジャファケーキ誕生前史、第1回の続きです。

20世紀に入ります。

今回も公式サイトの沿革に適宜情報を足すような形で書いていますが、そればっかりなのも独自性がないので、同じ時期のイギリス史の出来事を書き足すことにしました。

イギリスを代表する会社のひとつとなったマクヴィティ&プライス。

スコットランド発祥ではありますが、イングランド南部でも需要が増加していきます。

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これを受けて1902年、ロンドン北西部のハールズデン(Harlesden)に新しい工場を作ります。

1902年と言えば、第2次ボーア戦争(The Second Boer War)が終結した年で、このあたりからイギリスならびにイギリス帝国は緩やかに衰退局面に入っていきます。

同年に結ばれた日英同盟は、イギリスにとってはいわゆる「光栄ある孤立(Splendid Isolation)」からの方向転換を象徴する出来事でもあったわけです。

イギリスのあり方、イギリス帝国のあり方を国民が自問自答するなか、1914年に第一次世界大戦が勃発します。

イギリスも総力戦体制に入るわけですが、国を代表する食料品会社となっていたマクヴィティ&プライスは、政府の要求を受けて、兵士に配給される携帯非常食(iron ration)としてビスケットの製造に従事します。

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この需要を満たすために、イングランド北西部のマンチェスター(Manchester)に新たな工場も作られたようです。

この新工場の写真のように、戦時中は工場などで働く女性が増えました。

というより、増えざるをえなかったわけですが、このような女性の家庭外労働は1918年にイギリスで初めて女性参政権が認められるきっかけのひとつとなりました。*1

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第一次世界大戦が終わって5年後の1924年、マクヴィティ&プライス社はビスケット製造に専念することにします。

輸送に適していたためですね。

さて、この時期の歴史でなんと言っても重要なのはアイルランドの独立です。

1922年、アイルランド自由国(Saorstát Éireann)が誕生します。*2

大戦を経て、イギリスの衰退あるいは縮小は明らかになっていきます。

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さて、マクヴィティ社の方は翌年の1925年、ついにチョコレートに手を出します(笑)。

すでに代表的製品となっていたダイジェスティヴ・ビスケットにチョコレートをコーティングし、ホームウィート・チョコレート・ダイジェスティヴ(Homewheat Chocolate Digestive)というブランドで発売します。

今の人気商品、マクヴィティズ・チョコレート・ダイジェスティヴMcVitie’s Chocolate Digestives)に他なりません。 

今でも紅茶のおとも界最強を争う鉄板ビスケットであることは間違いのないところ。

この偉大なビスケットについては、また改めて紹介したいと思います。

そしてついに2年後の1927年、もうひとつの画期的商品が生まれることになります。

お待たせいたしました、ジャファケーキです。

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製品名のジャファというのはオレンジの一種で、イス ラエルのヤッ ファ(Jaffa)という港町から輸入したことから、このような商標を得ています。*3

1920年代というのは本当に面白い時期で、この頃のイギリスもいろいろとありましたが、歴史上の出来事としてはまず1926年のゼネラル・ストライキを挙げたいと思います。

イギリス中の労働者、雇用者、要するにほとんど国民全体を巻き込んだ大事件なので、触れないわけにいかないでしょう。

このときすでに一大企業となっていたマクヴィティ社が無関係だったとは思えませんが、当然そのような労使関係のいざこざは公式サイトの「正史」には書いてありません (^_^; 

もちろん、ストライキは本当になかったのかもしれませんが、大きめの労使間交渉はあったんじゃないかなあ。

そしてこのブログの筆者としては、1927年のイギリスモダニズムの不朽の名作、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(To the Lighthouse)の出版も記しておきたいと思います。

『灯台へ』とジャファケーキが同じ年に誕生したと考えると、感慨深いものがありますw

さて、第3回では、ついに「ジャファケーキはケーキなのかビスケットなのか問題はなぜ問題になったのか問題」を扱います!

*1:第4回選挙法改正で30歳以上の女性に選挙権が認められました。年齢制限も含めて男性と同じ条件になるのは1928年の第5回選挙法改正を待つことになります。

なお、こうした戦時中の工場などにおける女性の労働を女性参政権実現への動きの中に位置付けるのは簡単ではありません。

確かに、戦時中に女性が家庭外でも働くことを求められ、「女性の労働力」が顕在化したために、国家から見ればもはや参政権を認めないわけにいかなくなった、という側面があることは確かです。

しかしながら女性参政権の実現には複合的な背景・要因があります。

そもそも、これを実現すべく19世紀から続いてきた活発な運動がなければ選挙法改正もなかったでしょう。

このように、大戦時のイギリスに女性が「労働力」(このような「労働力」の見方においては家庭内における労働は考慮されていないことにも十分に注意する必要があります)として大きく「貢献」したことが参政権実現を後押ししたと言うことはできるでしょうが、これを単純な因果関係で結びつけることはできません。

*2:英語では Irish Free State。

なお、どの時点を「アイルランド独立」とするかは立場や見方によって微妙なのですが(なんといったって、まだアイルランドは独立していないという立場も当然あるわけですから……)、国際的に承認された形での国家誕生はこのアイルランド自由国と見てよいでしょう。

なお、この時点ではイギリスの自治領(Dominion)のひとつという位置づけで、政治的な紐帯が切り離されるのは1937年のアイルランド共和国誕生を待つことになります。

*3:ヤッ ファは現在のテルアヴィ ヴにあり、行政市としてはテルアヴィ ヴ・ヤッ ファ市(Tel Aviv– Yafo)となっています。